経済学・哲学掲示板 過去ログ-3-
7月 1日(火)23時09分40秒〜7月17日(木)13時23分14秒
ハイデッガーについて 投稿者:高望み 投稿日: 7月17日(木)13時23分14秒
は、十代の後半のころ、ただ難解そうだというだけで憧れていた時期がありまして、『存在と時間』と若干の短篇のほかには概説書を読むばかりでしたが、多少ハイマートリッヒな感じももっています。
ハイデッガー自身は、たぶん初期と後期ではニュアンスが変化しているのかもしれませんが、プラトン以来のイデア論的な形而上学を全否定したいというモチーフがあったわけです。このモチーフは、ニーチェにそもそもあったものを、いやニーチェこそは形而上学の完成者だった、と転倒させたのがハイデッガーでした。
いちど、そういう論法をやってのけると、次々と後からきたものに、いやハイデッガーもまた……というように反復されるようになります。よくは知りませんがデリダなんてのはそのくちではないでしょうか。
それはともかく、後期のいつ頃からか、ハイデッガーはプラトン以降の西洋形而上学における「真理」とは、語義論的に「覆いをはぎ取ること」として、人間中心主義的な暴力的なふるまいなのだと批判するようになったと記憶しています。
にもかかわらず、「存在」と「存在者」という二分法で語るかぎり、「本質」と「現象」のバリエーションを反復しているだけだ、と老さんは言われたいのだと思います。
それは、二分法という側面ではそのとおりです。ただ、ハイデッガーにいわせれば、「存在」と「存在者」は次元が違うもので、形而上学もまた「存在」ではなく「存在者」しか扱ってこなかった、とされているわけです。いわば一階と二階の違いです。それに対して、通常いわれる形而上学は自然的、経験的な対象いがいの神的・霊的ないわば超自然的・超感性的な「超越的」対象を扱いますので、自然学・経験科学とは次元が違います。いわば二階と三階の違いでしょうか。
また、ちょっとややこしいのですが、カントやフッサールの認識論は、認識主観を経験心理学的に扱うのではなく、認識主観そのものを認識するような位相で扱うので、これを「超越論的」哲学といっています。「超越論的」哲学は、「超越的」形而上学とも、経験科学とも次元が違っています。ここでは適当にあてはめておけば、まあ一階と二階のあいだの中二階といったあたりでしょうか。
で、マルクスの経済学批判はあくまでも三階、経験科学のフロアにあるということです。経験科学のフロアにおいても、「本質と現象」のような二分法がごくふつうに用いられるのは当然のことです。というのは、「理論と実証」という手法が一般的に使われているからです。(ここは宇野学派の影響が強いのかもしれませんが、わたしはマルクスの経済学批判の「批判」の趣意をあまりカント哲学的に読み込む趣味はありません。たんに既存の学説の批判という程度でしかとらえる必要がないと思っています。)
また、ハイデッガーにおいては、プラトン的な発想の流れの中にヘーゲルの弁証法もおかれていて批判的にとらえているのではないかと思うのですが、このあたりはヘーゲル哲学を専門にしている鄙親父さんにでも聞いてみたいところです。
PS.ポパーの問題にしている反証可能性は、経験データの取り扱い方にのみかんする事柄ですから、ここでいう三階にある経験科学にのみあてはまる問題です。論理実証主義は、三階の経験科学の言説のみが「有意味」だとして、それ以外をすべて「形而上学」として切って捨てたのですが、それではあまりにも平板すぎるということは、縷説を要することでしょうか?
そろそろ 投稿者:高望み 投稿日: 7月17日(木)12時46分28秒
私の目には堂々巡りになってきているように思われます。すでに書いたことの繰り返しになるばかりかと。
ただ、一点、カール・ポパーについてですが、ポパーの反証主義はまったく妥当な考え方なのですが、それを元にしてヘーゲルやマルクスを裁断してゆくときに、ちょっとヘーゲルやマルクスの読み方が違うのではないかな、というところが多々あります。ヘーゲルについては、自由主義者なのに国家主義者と完全に誤解していることが挙げられます。また、マルクスについても、エンゲルス以降、「科学的」社会主義という無体なことがいわれるようになったマルクス主義の批判と、『資本論』における経験科学的な仮説のもつ欠陥についての批判とが、十分に区別されていないというのが問題です。ただ、それはドイツ・ナチズムとスターリン主義の全盛時代に書かれた警世の書という性格に規定されたものだと思えます。
>「反証可能性」の追求もまた「仮説」の「相対性」の「無限設定」という悪夢を招くのではないでしょうか?
それは実際に経験科学に携わってみれば抽象的・空想的な杞憂でしかないように思われることと存じます。
なお、価値形態論については、老さんのいう「半世紀も前の論戦の、矮小化され、縮小再生産されたはなし」でしかなので、いまだ主題的な論文を書いたことはありませんが、拙著『恐慌と秩序』(情況出版)所収の何本かの論文で、自分の見解をまとまったかたちではないものの披瀝しておりますので、ぜひ御参観下さい。「拡大された価値形態」と「一般的等価形態」がグルグル回るという「貨幣形態Z」なる奇説を批判した『批評空間』投稿論文もあります。
プロクルステス 投稿者:老 投稿日: 7月17日(木)02時00分55秒
>「すなわち、物々交換は成立する確率がきわめて低い。多くの人から共通に欲求されるモノのばあいには物々交換が成立する確率はいささか高くなる。そこで、このモノをいったん取得してから、もともと欲しかったモノを手に入れようとする行動パターンが生まれてくる。さいしょは人気のあるモノならなんでもよいが、しだいに耐久性や加工・分割可能性など、さらには高価な奢侈財的な性質をもったものに絞られてゆく。その結果、貴金属が貨幣として適格性が高いということが論理的に説明される。」
「逆転」の論理の核心になる部分の掲示、ありがとうございます。
「形式の論理ではなく、経済行動の論理」をさらにおしすすめ、「経済主体の欲望だけで原理論を再構成した」山口・原論が、これなのですね。
宇野派内外(*1)から批判も出ているのでしょうか、その点、私まるで存じませんので、思いつくまま素人の感想、述べさせていただきます。
宇野・原論をはじめて読んだとき以上の違和感を持ってしまいます。
「物化の体系」と呼ばれながら、「欲望」などという意識過程が混入されていることは、やはり理論的一貫性に欠けるのかな、とは思いますし、。しかし高望みさんは、山口・原論は「物化の体系」ではない、と言明なされていますので、「純粋資本主義」像と「原理論」との関連で疑問なしとはしませんが、この点、とりあえず留保ということにしたいと思います。
しかしながら、『資本論』の「商品所持者」は、「自分の欲望を満足させる使用価値を持つ別の商品とひきかえにでなければ自分の商品を手放そうとしない」(「交換過程」)わけで、「人気のあるモノ」→「奢侈財」→「貴金属」という論理の運び(これが「経済主体の欲望にもとづく経済合理的な行為」なのでしょうか?)に恣意的な論理操作性を感じてしまいます。論点先取的というか、「一般的等価物」を導出するために無理を重ねてるような。「プロクルステスの鉄床」の神話を連想してしまいます。
思うに、やはり、「どの商品も一般的等価形態」を僭称しようとするが故に「一般的等価物」の成立は形式論理上不可能である、というところまで突き詰め、このアンチノミーの揚棄は位相の異なる理論、すなわち抽象された歴史の舞台(「交換過程」論)へともってくるのが無理がないように思えます。
あるいは、「拡大した価値形態」と「一般的価値形態」を表裏一体の円環構造(*2)と捉え、その構造がさらに「貨幣形態」の循環構造(*3)と相似であるが故に、T・U・Vの「形態」は不用である、としたほうが「貨幣」の説明にはわかりやすいように思えます。
(*1)当掲示板に書きこみはじめた時点では、高望みさんが、宇野派の研究者として、『段階論の研究』を著していること、存じあげませんでした。失礼のほどご容赦願います。
(*2)「一般的等価物の相対的価値を表現するためには、形態Vをあべこべに読まなければならない。一般的等価物は、・・・その価値は、他のすべての商品の果てしない系列のうちに相対的に表現される。このようにして、発展した相対的価値形態、すなわち形態Uはいまや、一般的等価物が自分自身の価値をそのうちに表現するところの独自の形態として現れる。」(「第一章」)
(*3)「金が貨幣であること、すなわち、金がすべての商品と交換可能であることを知っても、そのために例えば10ポンドの金がどれだけに値するかは、全然わからない。貨幣もあらゆる商品同様、それ自身の価値量を他の商品のうちに相対的にしか表現することができない。」(「第二章」)
(*2)(*3)にみるように、マルクスは、論理の道行きに任せると自らの「価値形態論」が、単にアンチノミーに陥るだけでなく、二重のスパイラルに落ちて行くことを承知していたようです。問題は、「にもかかわらず、何故?」というところでしょうか?
「歴史の論理」にまかせてしまうか、そうでなければ「形態論」を放棄したほうが、マルクス、浮かぶ瀬もあるかな、と思うのですが。
ポパーとハイデッガー(2) 投稿者:老 投稿日: 7月17日(木)01時59分03秒
さてそこで高望みさんに簡潔に伺いたいのですが、『資本論』は「科学(science)」(*)なのですか、「非科学(pseudoscience)」なのですか?
さらにややこみいった質問をしたいと思います。マルクスは、「物理学」的「実験」になぞらえて『資本論』の方法に触れていますね。同じく宇野も自らの原理論の方法を「自然科学」に近似的なものとして考えているようですね。では、そうした両者の方法と高望みさんのおっしゃる「マルクスの経済学批判は・・経験科学的な研究以外の何物でもありません」という場合の「経験科学的な研究」の方法との異同はどのようなものなのですか?
また、ハイデッカーを引き合いにだされてのご説明ですが、「存在者(Seiendes)」の背後に「存在(Sein)」の影をみて、「存在の光(Lichtung des Seins)」のもとに浮かびあがらせようとする、まさにその論理構造こそ「形態論」の論理構造と表裏をなすものと思いますがどうでしょう?つまり、デアレクティクという光のもとで、貨幣の背後にそれを存立せしめるナニモノカをみよう、とするあり方。
しかし、その延長線の行きつくところは、結局のところ、プラトン的イデアの世界では、とも思うのですが、どうでしょうか?
以上のようにハイデッカーとマルクスを照応させること自体、一知半解というだけでなく無知蒙昧の謗りを免れないでしょうか?
>「・・マルクスの経済学批判は古典派経済学とまったく同様に、「存在者」についての、経験科学的な研究以外の何物でもありません。」
となると、マルクスの「経済学批判」は平板な、魅力のないものになりはしないでしょうか?私には、マルクスが「存在(Sein)」をも思考の対象にしているとしか思えないのですが(前段に重複しますが)。
(*)こんなことも思い出しました。
「マルクス主義こそ科学である」とか「科学的唯物論に基礎付けられたマルクス経済学は・・」とアツク語っておられた方が、数年後ツタの絡まる研究室をたずねてみたら、「マルクスに騙されていた」と言わんばかりの悪態を吐いていた様子には同情すらもちました。お名前は失念しましたが、ベルリンの壁の崩壊とともに頭の中までメルト・ダウンしたようでした。
ポパーとハイデッガー(1) 投稿者:老愚童あらため老 投稿日: 7月17日(木)01時57分33秒
>「他方、リッケルトのあと、ウィーンのマッハ学派(論理実証主義の源流)は、自然科学の方法論だけが科学だとする強い主張を行い、その場合の「科学」の基準とは何か、ということを議論していきました。・・・・・・・・
この流れでは、「検証可能性」が科学性の基準となる、という議論からはじまって、カール・ポパーが、検証というのは無限回、実験をしなくては確実なものとはなりえないのだから、原理的に不可能である、という批判が起こりました。ポパーは、あらゆる科学の命題は仮説でしかない。ただ、反証データが突きつけられたとき、誤った仮説であることがはっきりできる命題であるかどうかだけが、科学性の基準となるとしました。
わたしは、ポパーの考え方が妥当なものだと思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
よって、マルクスの議論は、近代経済学者や宇野学派によってさまざまに、論理性や事実性によって反証がなされるべき箇所はなされてきたのであるから、科学の仮説的な命題の発展プロセスにおける重要な、過去の誤った要素を含んだ、金字塔であったと考えています。」
ポパーの主張には凡人にはわからないところも多いのですが、理解の範囲で述べたいと思います。
まず、ヘラクレイトス、アリストテレスにはじまりニュートン、カント、マルクスさらにはトインビーにまで及ぶ一連の理論(思想)を、「迷信」・「信仰」にもとづく「古くから存在するひとつの運動」だから「科学的根拠」を欠くものとして「Historicism」の名のもとに、ポパーは批判しているのではないでしょうか?そしてその焦点には、マルクスの理論(思想)が設定されているのではないでしょうか?
ところが、高望みさんは、
「マルクスの議論」は、「論理性」や「事実性」によって「反証」されてきているのだから、「カール・ポパー」の「反証可能性(falsifiability)」という基準をクリアーしてる。故に、「金字塔」であり「科学」的である、と。
たしかに、「検証可能性(verifiability)」の追求は「帰納法」への「無限後退」を招くとしても、「反証可能性」の追求もまた「仮説」の「相対性」の「無限設定」という悪夢を招くのではないでしょうか?
そのように考えると、古来、ほとんどの理論・(思想)は「異論・反論」・「反証」の嵐に晒されて、その都度、「仮説」の再設定がなされてきてるわけで、周りじゅう科学的理論やら(思想)だらけになってしまいませんか?また、ポパーの主張・理論自体が「反証可能性」の洗礼を受けることにもなるわけで、その意味では、ポパーの「科学性の基準」なるものが、きわめて怪しく思えてしまうのです。
というのが、一知半解の老苦力の考えるところなのですが、誤解があればご指摘お願いします。
Zenon 投稿者:老愚童あらため老 投稿日: 7月17日(木)01時49分10秒
>「・・・貨幣の生成は、財・サービスの交換の瞬間に不断に繰り返されている、ということが主に考えていたことです。」
あらためて問題を次のように設定しましょう。
a: 金属のかけらや紙のきれはしが「財・サービス」との「交換の瞬間」に「不断」に「貨幣」に転成する、のは、どのようにして・どのような機序をとおしてなのか?
b: 転成の瞬間を捉えきったのがマルクス「価値形態論」であるとしたら、3(4)連のロ ジックはその瞬間に対してどのような位相にある論理と考えるべきなのか?
以上、Zenonのアポリアをも含みかねない問いですが、よろしくお願いします。
あちこちROMはしてます 2 投稿者:高望み 投稿日: 7月16日(水)20時49分39秒
>戦後西側で独り勝ちの風情のあったアメリカを追って、旧西独と日本とが“奇蹟の復興”を遂げたとき、またレーニンふうにいえば(笑)「不均等発展の法則」が姿を現わして「戦後世界」がダイナミックに展開したと理解してまいりました。
不均等発展の「法則」! これは「法則」なんでしょうか? およそ経済成長率が不均等なのは当たり前の状態ではないかと。逆に、条件の違うはずの諸国の間で、斉一的な経済成長率で均等発展するような現象があれば、そこになんらかの法則性を見いだすというならわかりますが。
ですから、不均等発展そのものから、たえず世界経済の新しい問題が生起する、ということですね。それは公理みたいなものですが、「法則」というのはいかにも奇妙です。
>当時岩田理論の影響下にあったグループ
わたしたちの政治感覚との乖離もご想像いただけましょうか(笑)。
といわれましても「わたしたち」の範囲がはっきりしない分、わかったようなわからないような……。
>とはいえわたしたちのほうの「政治感覚」も、当時の世界の深まる危機を総体として捉える理論水準には遥か遠く、その分だけ「政治」意識がつんのめって行ってしまったことは否めません。その空隙に(広義の)毛沢東主義やその亜種が忍び込んで「政治」感覚そのものをも蝕んでいった経緯につきましては、この板の範囲を超えることとなりますので、このあたりとさせていただきます。なお、これと関連して、臨夏板のほうで(蘇丹・加里耶夫さんというユニークな論客と)少しばかり議論させていただいております。
是非、過渡期板あたりでもお願いします。
>「帝国主義」につきましては少し腰を据えて「お勉強」してみようかと、そのための場も作ってみたところですので(お知らせありがとうございました>臨夏さん)、そちらでぼつぼつノートしていく所存でございます。その節はぜひご教示・ご助言いただきたく、何分よろしくお願いいたします。
何かお力になれることがありましたら幸いです。
あちこちROMはしてます 1 投稿者:高望み 投稿日: 7月16日(水)20時48分09秒
>レーニンふうに言えば「独占段階の資本主義」ということになりましょうか。であれば20世紀初頭にはすでに成立していたと理解できます。
ところがこれがですね、1970〜80年代の宇野学派や西洋経済史等々の研究者による実証研究では、19世紀末〜20世紀初頭の独占・寡占の形成は、いわれているほどではなかった、というようになってきました。侘美光彦氏の『世界大恐慌』によると、独占がはっきりと構造化して、独占価格が眼にみえる形になるのは、1920年代のアメリカからだということです。河村哲二氏によれば、それすらも過大評価で、第二次大戦期の戦時経済体制から独占が本格化する、というように、実証研究の分野では、どんどん時代が降ってきています。
>管理通貨制の成立は同時に国家による信用創出に媒介された軍事支出や公共投資など国家スペンディングの拡大を条件づけたはずですから、「国家独占−資本主義」という文脈も論拠を持ちそうに思いました。
経済学者たちは、「国家独占」といったら専売制のことである、と厳密に考えたようで、専売制だけを「国独資」のメルクマールとできるのか、と批判した議論があったわけです。
大内力氏の理論は、たしかに「「国家」の意味(経済主体としての役割)を通貨管理の面だけに切り縮める」ものでした。学界と言うところでは、バランスのよい常識的見解よりも、やや奇を衒った偏りのある見解のほうが受けるという点では、ふつうの世間と変わりがありませんね。
驚愕3連発!・承前>高望みさま 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 7月15日(火)00時39分54秒
この「戦後世界」のダイナミズムは50年代後半から60年代前半までの「繁栄」のうしろでふたつの問題を引きずり出したかと存じます。ひとつは基軸通貨ドルの動揺=ドル危機(およびポンド危機)、もうひとつは世界的再生産構造からの旧植民地地域の構造的疎外でございます。旧植民地地域だけでなく、アメリカ国内でも農業生産部門の大再編を伴い「黒人問題」を社会的に浮上させたこと、64年頃の大内力先生のレポートの鮮烈な印象を記憶しております。
> 同時代的な感覚とはずれるかもしれませんが、1964〜65年ぐらいだと、まだ多国籍企業やユーロダラーの話題が浮上する直前という印象をもっていますが
58年第一次ドル危機に始まる国際通貨体制の動揺と、ほぼ同時期の欧州経済共同体(EEC)の発足は、「チューリヒの小鬼」と呼ばれた投機筋の存在を浮かび上がらせました。その操作する短期資本が65年には「ユーロダラー」と呼ばれていたのを記憶しております。とはいえドル危機、ポンド危機に現れた国際通貨危機が全面化するのは、67‐68年の「ゴールドラッシュ」を待たねばなりませんでしたが(このあたりのわたしの擬理論的「素養」は実は代々木系でございまして(笑)、当時のネタ本の著者は中大教授だった桑野仁さん)。
多国籍企業のほうはそうですね、この用語が定着するのにもやや時間がかかり、60年代には「世界企業(ワールドエンタプライズ)」とか「地球的企業(グローバルカンパニー)」とかそれこそバラバラでしたけど――国連用語が「超国家企業(トランスナショナル・コーポレーションズ=TNCs)」、OECD用語が「多国籍企業(マルチナショナル・コーポレーションズ=MNCs)」と整理されるのは70年代に入ってしばらくしてからであったと存じます――、「国境を超える」その行動が通貨危機を増幅するものとして、またアメリカの「産業空洞化」を呼ぶものとして注目されだしたのも、66年あたりからではなかったかと、....こちらは記憶も曖昧でございますが。というのもわたしが「多国籍企業」問題に目を向け始めたのは70年前後だったものですから(多国籍企業の行動に各国政府が抱く危機感を背景に国連が最初の専門家委員会〔「G20」と呼ばれました〕を組織したのが1970年でございました)。
わたしなどが岩田「世界資本主義」論に惹かれるところ少なかったのは、ご指摘ありましたように「岩田さんの場合には西側資本主義諸国だけの「世界」でした」だったことが大きくございました。65年北爆が開始された「ベトナム」について、岩田「危機論」はまったくといっていいほど無感覚だったのですね。当時岩田理論の影響下にあったグループのスローガンは「生活と権利の実力防衛」。なんたる「経済主義」「一国主義」かと呆れました。しかもその「危機」論者が、68年ホンモノの危機が訪れたときには「まだこれは本格的危機ではない」などと言う有様だったとなれば、わたしたちの政治感覚との乖離もご想像いただけましょうか(笑)。
とはいえわたしたちのほうの「政治感覚」も、当時の世界の深まる危機を総体として捉える理論水準には遥か遠く、その分だけ「政治」意識がつんのめって行ってしまったことは否めません。その空隙に(広義の)毛沢東主義やその亜種が忍び込んで「政治」感覚そのものをも蝕んでいった経緯につきましては、この板の範囲を超えることとなりますので、このあたりとさせていただきます。なお、これと関連して、臨夏板のほうで(蘇丹・加里耶夫さんというユニークな論客と)少しばかり議論させていただいております。
「帝国主義」につきましては少し腰を据えて「お勉強」してみようかと、そのための場も作ってみたところですので(お知らせありがとうございました>臨夏さん)、そちらでぼつぼつノートしていく所存でございます。その節はぜひご教示・ご助言いただきたく、何分よろしくお願いいたします。
長々失礼いたしました。m(__)m
驚愕3連発!>高望みさま 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 7月15日(火)00時38分51秒
「素人の思い付き」に多岐・長大なレスをちょうだいして恐縮しております。テーマ上お隣り「過渡期」板のほうが適切なものもたくさん含まれているように思いましたので、とりあえずこちらのテーマに親近的かと思われる点にかぎって少々・・とか言いながら長くなる予感(苦笑)。
> 「独占資本」というのは、実はレーニンもスターリンも使っていません、ヒルファディング同様に「金融資本」なんですね。―(中略)―「独占資本」という奇妙な用語をつくりだしたのは、スウィージー、バランの『独占資本』なのではないかと思います。
あらま、そうだったのですか! びっくりしました(笑)。
>かれらは、ドイツの銀行支配型の「金融資本」なんて一過性の些細なものにすぎなかった、アメリカで発達した自己金融型の「独占資本」こそが典型なのだ、という議論をしました。
すると「独占資本」というのはきわめてアメリカ・マルクス主義的概念ということになりますね。たしかに「コングロマリット」化から「多国籍企業」化という歩みは、アメリカ企業ならではのものであったかもわかりませんね。そこには、軍産共同体という構造と、基軸通貨国という特殊な位置も与っていたのかもわかりませんけど。
>「独占資本主義」なら使われています。その場合は、独占が−−寡占や競争と併存しつつ−−重要な意味をもつようになった資本主義、というぐらいのものかと思います。
レーニンふうに言えば「独占段階の資本主義」ということになりましょうか。であれば20世紀初頭にはすでに成立していたと理解できます。まだそこでは金本位制が機能しておりましたね。それが第二次大戦後には「国家独占資本主義」へ“移行”したということになりましょうか。
>学界で最有力説となった大内力説では、「国家−独占資本主義」説だったと思います。国家による管理通貨制の導入がメルクマールとなる、と。
管理通貨制の成立は同時に国家による信用創出に媒介された軍事支出や公共投資など国家スペンディングの拡大を条件づけたはずですから、「国家独占−資本主義」という文脈も論拠を持ちそうに思いました。俗流ケインズ政策が誘導した戦後型資本蓄積(高度成長)を考えますと、「国家」の意味(経済主体としての役割)を通貨管理の面だけに切り縮めるわけにもまいりませんね。戦後西側で独り勝ちの風情のあったアメリカを追って、旧西独と日本とが“奇蹟の復興”を遂げたとき、またレーニンふうにいえば(笑)「不均等発展の法則」が姿を現わして「戦後世界」がダイナミックに展開したと理解してまいりました。
/続
>>臨夏さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月14日(月)05時33分32秒
ご紹介ありがとうございます。ほうぼうで議論が賑わってますね^^
おしらせ 投稿者:臨夏 投稿日: 7月14日(月)02時00分49秒
大字報で、議論が盛り上がってきました。
鬼薔薇さん管理の勉強会板もでけましたよ。
また、お手透きのときにでも見てください、、
てわたしが勝手に鬼薔薇さんの板にそんなんいうたらいかんのかな(^^;
↓
http://6213.teacup.com/onibara/bbs
RE:鬼薔薇さん 3 投稿者:高望み 投稿日: 7月13日(日)21時52分10秒
>また、各国資本主義の総和として世界資本主義があるのか、それとも各国資本主義を資本主義という世界体系の有機的部分とみるのか、この認識の交叉する点は、今日いっそう重要でございましょう。各国別にみるなら「帝国主義」という特徴づけは古色蒼然ですが、世界編成(世界体系)としてみるならどうか、という論点は、ネグリ「帝国」論の評価にもかかわって今日的なテーマかと存じます。
この論点こそ、学術研究的な位相で岩田さんが忘れられてはならない点だと思います。ただ、岩田さんの場合には西側資本主義諸国だけの「世界」でした。故・さらぎ徳二氏が、ある種、折衷的に打ち出したという「三ブロック階級闘争論」は、地球的な視野での「世界」を対象とするお膳立てとしてはなかなか優れたものだったと思います。(しかし、このような「学術研究」的な議論の進展がなされる背後に、再建ブント内で「組織された暴力」?付きの分派闘争なしではすまなかったとは……。「帝国主義」がどうの、というよりもレーニンを問題とするなら権力=暴力論、言論の自由の問題のほうが、日本でははるかに重要かと。)
地球的な視野での「三ブロック」を横断する「階級闘争」、これは、当時の世界情勢は冷戦時代のものですし、使われている言語・解釈枠組みは古色蒼然としたマルクス・レーニン主義にとらわれたものですが、グローバルな<群衆>の横断的な闘争を、68年当時の極東の一隅で言葉にしようとした表出のあがきとみれば、なかなかに先駆的なものだったといえるのではないでしょうか。
もちろん、ウォーラーステイン方面の世界システム論の概念も参考になると思います。とくに、世界資本主義システムを、世界経済システムとインターステート・システム(主権国家間システム)の二重性においてとらえています。この場合、「各国」というものは、相互作用する国家間システムの一構成要素としてのみとらえられることになります。日本の戦後左翼哲学人士にわかりやすく言い換えるならば、個々の人間が社会的諸関係の項としてとらえ返されたようなものだということでしょうね。
>当時すでにアメリカ大企業が「多国籍」化しはじめていた現象(例:クライスラーによるシムカ買収にドゴールが激怒)、あるいはまたそれにも媒介されて国籍を離脱した遊休貨幣資本(ユーロ・ダラー)の投機運動の広がりなど、60年代を特徴付ける資本の国境を超える新動向をどれほど射程に入れていたか、疑問なしといたしません。
同時代的な感覚とはずれるかもしれませんが、1964〜65年ぐらいだと、まだ多国籍企業やユーロダラーの話題が浮上する直前という印象をもっていますが、60年代後半に浮上したきたそれら新現象をどうとらえるか、ということは、すぐには答え−−ほんとうに新しいのか、新しいとしてどの部分が?といった−−のでないものだったと思います。
個別・部分的な実証研究や経済理論的な説明というのはなされていても、いまだに、誰もが共有できるトータルな見方というのはないですよね。
>いずれにせよ素人の思い付きばかりで発展性もなく、ご教示たまわれば嬉しく存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。m(__)m
いえいえ、とても「素人」とは思えませんです。まあ、講壇「経済学」についてはそうだということかもしれませんが。こちらこそよろしくお願いします。
RE:鬼薔薇さん 2 投稿者:高望み 投稿日: 7月13日(日)21時51分41秒
>ところで上の「帝国主義段階ではなく国独資段階」という門松説ですけど、ふたつ問題がありそうにわたし思っておりました。ひとつは、「国独資」における「国家」と「独占資本」の結合の問題、もうひとつは資本の世界編成の捉え方でございます※。「国家」と「独占資本」の結合という問題はどこでレーニン段階と区別されるのか、
もかかわって今日的なテーマかと存じます。
※「独占資本」という用語法も実はわたしよくわかりません。巨大企業の間でも競争はあることを考えますと、「独占」より「寡占」のほうがよりよく事態を現わしているようにも思うのですけど。
「独占資本」というのは、実はレーニンもスターリンも使っていません、ヒルファディング同様に「金融資本」なんですね。「独占資本主義」なら使われています。その場合は、独占が−−寡占や競争と併存しつつ−−重要な意味をもつようになった資本主義、というぐらいのものかと思います。
「独占資本」という奇妙な用語をつくりだしたのは、スウィージー、バランの『独占資本』なのではないかと思います。かれらは、ドイツの銀行支配型の「金融資本」なんて一過性の些細なものにすぎなかった、アメリカで発達した自己金融型の「独占資本」こそが典型なのだ、という議論をしました。
なぜか、ヒルファディング〜宇野派では「金融資本」を使うが、レーニン教条主義派は「独占資本」を使う、という慣例が、いつの頃からかできていましたが、実際には、スウィージー、バラン以外は、誰も「独占資本」なんて言ったことはなかったのです。
で、「国家独占資本主義」といったとき、「国家独占−資本主義」なのか、「国家−独占資本主義」なのか、等々といったことが議論されたようですね。門松説はどうなっていたか、記憶だけでわかりません。学界で最有力説となった大内力説では、「国家−独占資本主義」説だったと思います。国家による管理通貨制の導入がメルクマールとなる、と。
RE:鬼薔薇さん 1 投稿者:高望み 投稿日: 7月13日(日)21時10分01秒
>また吉本さんのは、「世界戦争の不可能性」であって「革命の不可能性」ではなかったように記憶いたします。いずれも40年も前のこととて、定かとは申しかねますけど(^^;
そうでしたか? わたしは記憶のあやふやさには自信がありますけれども、論旨として、「革命の不可能性」のほうがむしろメインのトーンだったという印象を強く受けましたが。「戦後思想の荒廃」という論文。読んだのが、80年代だったものですから、そこにストレートにつながるものとして受け取ったわけですけれども。
岩田さんの「戦争と革命の時代」のパロディ?として、「戦争と革命の不可能性」ということをいっているのかな、と思ったものでしたが、勘違いの記憶違いかもしれません。でも、昭和40年時点において、吉本さんは「革命の不可能性」を強く意識していたことは間違いなかったと思います。ただ、その思想的内容は後の時期とはおおきく違ったものだったのでしょうね。
>60年代新左翼を突き動かしていた要素には、キューバ−ベトナム、第3世界革命の新たな胎動と日韓条約に現れた日本資本主義の「帝国主義化」が大きかったのに対し、門松説も吉本説もそのダイナミズムに必ずしも対応するものでなかったがゆえに影響力もイマイチ・イマニ・イマサンではなかったのかと存じます。世界が・社会が地底から揺れ動いているという新時代の感覚に当時の戦闘的左翼は魂を揺すられておりました。一向「過渡期世界論」は、そんな気分のひとつの表現であったには違いございません。
同時代の方からのお話し、たいへん興味深いです。『現代資本主義への一視角』については、C大の諸先輩からはあんまり立ち入った話しは聞いたことがありません。一向的妄動を否定しつつも、心情的・直観的な世界は共有しているというスタンス、そもそも当該の65年当時にはベトコン義勇兵に志願しようかとすら考えて吉本さんに叱責されたというエピソードなどからして、鬼薔薇さんのような淡々とした位置づけもできにくいのかもしれなかったです。ごく近年は知らず。
逆に、80年代学生にとっては、廣松先生や吉本大先生が、65年当時にこういうことをいっていたのに、なんでマル戦〜赤軍的な危機論が覆ってしまったのであろうか?ということは、正直、ものすごい謎でした。近年続々と回顧録が出、趣味者的な発掘作業がなされ、ということつうじて、ようやく、1972年(1968年ではなく)の断層というのは、考えていた以上に巨大なものだったのだな、ということが感覚的にわかってきました。
RE:(無題)>>老愚童さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月13日(日)20時40分09秒
>そのことをテツガクに媚びた言い方にかえると、”現実のモノ・貨幣というモノ(Ding)の背後に在るものについての思索であり叙述である”と。
であれば、「ブルジョア経済学によって試みられることさえなかった」その叙述をなんと呼べばよいのでしょう。Metaphysik?それとも Ontologie? でしょうか?
マルクスは、その点に関して次のようにいっているのです。
「現象形態は、直接に自然発生的に、普通の思考形態として再生産されるが、その隠れた背景は、科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は、真の事態にほぼふれてはいるが、しかし、それを意識的に定式化してはいない。古典派経済学は、そのブルジョア的な皮をまとっている限り、それはやれない。」(第一巻、MEW版、564ページ)
Metaphysikというのは哲学者によって定義があまりにも多様ですが、Ontologieを、もし、ハイデッガーのように「存在者」についてではなく「存在」についての学だ、というならば、マルクスの経済学批判は古典派経済学とまったく同様に、「存在者」についての、経験科学的な研究以外の何物でもありません。
>翻って、逆に、『資本論』の登場人物たちの、貨幣を仲立ちとした商品の売買に連動して不断に転成する現前する貨幣の存立根拠を捉えきってないとすれば、それは、宙を漂う、マルクス創作の神話ではないのか、とも思えてしまいます。その場合、「形態論」は、「価値」が織り成すMytheを研究するMythologieということにでもなりはしないでしょうか?
神話を研究する神話学は、まったく経験科学の範疇に属しているのではないですか? 「世俗の神」である貨幣を研究することを、そのように比喩したとしても別にかまわないことでしょう。ただ、研究者が錯乱をして、みずから創作した神話と、伝承されてきた神話とが混同されているような場合には、それはしかるべく批判されるべきものでしょう。マルクスの価値概念の措定から価値形態論への展開には、そのような一人相撲のようなところがあるのではないか、ということをもしおっしゃりたいのでしたら、わたしもそれには同意いたします。
>ところで、「系統発生」と「個体発生」を重ねる、というのはどういうことでしょうか?例えば、或る人の誕生という「個体発生」において、受精卵から誕生までの間に魚・両生・は虫類の「系統発生」の痕跡が発現する、というようなことなのでしょうか?
そういう面もあるかもしれませんが、貨幣の生成は、財・サービスの交換の瞬間に不断に繰り返されている、ということが主に考えていたことです。
> ほんとうに残念なのですが、高望みさんおすすめ(と思われる)の『経済原論講義』(山口)は、当面、落ち着いて読めそうにありません。そこで、ここでの論点と関係する部分だけでもかいつまんでご教示願えませんか?
正確にやるのはちょっと億劫ですね。山口氏もマルクスや宇野の流れを意識しているので、何かと面倒な議論の手続きになっている面があるような気がします。でも、実際に論理的な内容をなしているのは、次のようにじつに明快なことです。
すなわち、物々交換は成立する確率がきわめて低い。多くの人から共通に欲求されるモノのばあいには物々交換が成立する確率はいささか高くなる。そこで、このモノをいったん取得してから、もともと欲しかったモノを手に入れようとする行動パターンが生まれてくる。さいしょは人気のあるモノならなんでもよいが、しだいに耐久性や加工・分割可能性など、さらには高価な奢侈財的な性質をもったものに絞られてゆく。その結果、貴金属が貨幣として適格性が高いということが論理的に説明される。(信用貨幣の説明は、さらに信用論の展開を通じてなされる。)−−
RE:科学?>>老愚童さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月13日(日)20時39分11秒
>自然科学のみがWissenschaftのありうる方法論であれば意味がある、ということなのでしょうか?
そういっても同じですね。
>Wissenschaftのなかから、自然科学と社会科学とをとりだした場合、両者の科学性の共通点と相違点は、どのようなものになるのでしょうか?
えーと、この点については、新カント派のリッケルトに自然科学と文化科学を分けるという古典的な議論がありますね。自然科学は「法則定立的」、文化科学は「個性記述的」という基準による分類です。
で、マックス・ヴェーバーは、リッケルトに依拠しながら、文化科学を社会科学におきかえて考えました。その際、社会科学は、たんに「個性記述的」な歴史学にプラス・アルファの方法として、「理念型」が研究対象となるとしたわけです。
宇野は、リッケルトとヴェーバーを意識しながら、原理論だけは社会科学であると同時に、自然科学と同じ方法論で扱える、段階論・現状分析となると、もうそうはいかなくなる、というように、論じました。
他方、リッケルトのあと、ウィーンのマッハ学派(論理実証主義の源流)は、自然科学の方法論だけが科学だとする強い主張を行い、その場合の「科学」の基準とは何か、ということを議論していきました。この流れが、二十世紀の主流の科学哲学となるのだと思います。
この流れでは、「検証可能性」が科学性の基準となる、という議論からはじまって、カール・ポパーが、検証というのは無限回、実験をしなくては確実なものとはなりえないのだから、原理的に不可能である、という批判が起こりました。ポパーは、あらゆる科学の命題は仮説でしかない。ただ、反証データが突きつけられたとき、誤った仮説であることがはっきりできる命題であるかどうかだけが、科学性の基準となるとしました。
わたしは、ポパーの考え方が妥当なものだと思っています。
>また、マルクス価値論の科学性(あればですが)は、それらとの関連で言えばどうなのか、そして何に根拠を置くものと考えればよいのでしょうか?あるいは、科学性を問うこと自体無意味なのでしょうか?
よって、マルクスの議論は、近代経済学者や宇野学派によってさまざまに、論理性や事実性によって反証がなされるべき箇所はなされてきたのであるから、科学の仮説的な命題の発展プロセスにおける重要な、過去の誤った要素を含んだ、金字塔であったと考えています。
RE:物化>>老愚童さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月13日(日)20時38分19秒
>「馬渡尚憲『経済学史』(1997年)で、リカードのあとのマルサス、ベイリー、シーニア、セー、シスモンディの論争のあたりを読んでいたら、宇野弘蔵『経済原論』(1950-52年)・山口重克『経済原論講義』(1985年)の時代から、・・・」
その論争の経緯、ご両人は了解してなかったのでしょうか?
そんなことはないでしょうし、宇野、山口氏自身はべつに「俗流経済学」に与したわけではありません。そうではなく、わたし自身が、宇野・山口の路線(「流通形態規定の純化」)を徹底したら、結局、マルサスらの理論構成を認めざるをえなくなるのではないかという感想をもった、ということです。
>とはいえ、宇野や多くの宇野学派のばあい、あいまいさは否めません。明確に「物化の体系」であることを否定し・・・・・・1985年)でした。」
>やはり宇野の言説にあるのではないでしょうか
そのとおりです、宇野原論は山口氏の原論構成とはとはまったく違って、そこのところが曖昧なんですね。
>「価値形態論」のところでは、「Form」に徹して形式論理学的につめて、「すべての商品所有者が同じ事をするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく」というように、「一般的等価形態」の空虚さを示唆するまでにとどめ、リアルな「諸商品の共同事業」としての「一般的等価物」の析出・排除に関しては、マルクスのまま、すなわち「交換過程」の章で行ったほうが無理がないように思うのですが・・。
これも、わたし自身は同意見です。『資本論』初版の価値形態論では、第四形態が多対多で、誰も貨幣になりえないという状態に戻ってしまいます。そこから、交換過程論であらためて貨幣の発生が−−ただし、没論理的な「歴史」的な契機を外挿して−−説かれています。
ですから、価値形態論の課題(「価値」という対象性の秘密を暴く)と、交換過程論の課題(貨幣の生成を解明する)とを、明確に分けるべきだというのがわたしの見解です。
その際、交換過程論の貨幣生成の論理は、マルクスのようにいい加減にやるのではなく、メンガーや山口重克のように、経済主体の欲望にもとづく経済合理的な行為から論理的に説くものとして抜本的に再構成されなくてはなりません。
コメントありがとうございました>高望みさま 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 7月12日(土)08時56分12秒
>1965年当時において、門松暁鐘が提起した「帝国主義段階ではなく国独資段階」という見解、それと相携えて提起された吉本隆明の「(核兵器の登場による)戦争と革命の不可能性の時代」という時代認識が、翌年の第二次ブント再建に活かされなかったことが、69年以降の戦後左翼の思想的、社会的な雲散霧消という悲劇を生む大きな要素であったのではないかと、ずっと思い続けています。
貴重なご指摘かと存じます。門松氏=広松先生のは、たぶん64年ごろにタイブ刷りで出された学習用テキストでしょうか。反「鈴木=岩田」系に軸足を置いていたような。また吉本さんのは、「世界戦争の不可能性」であって「革命の不可能性」ではなかったように記憶いたします。いずれも40年も前のこととて、定かとは申しかねますけど(^^;
60年代新左翼を突き動かしていた要素には、キューバ−ベトナム、第3世界革命の新たな胎動と日韓条約に現れた日本資本主義の「帝国主義化」が大きかったのに対し、門松説も吉本説もそのダイナミズムに必ずしも対応するものでなかったがゆえに影響力もイマイチ・イマニ・イマサンではなかったのかと存じます。世界が・社会が地底から揺れ動いているという新時代の感覚に当時の戦闘的左翼は魂を揺すられておりました。一向「過渡期世界論」は、そんな気分のひとつの表現であったには違いございません。ただ各派いずれもその「感覚」に前のめりになってしまって、見つめるべきところを見つめ切れなかったうらみはたしかにございますね。
ところで上の「帝国主義段階ではなく国独資段階」という門松説ですけど、ふたつ問題がありそうにわたし思っておりました。ひとつは、「国独資」における「国家」と「独占資本」の結合の問題、もうひとつは資本の世界編成の捉え方でございます※。「国家」と「独占資本」の結合という問題はどこでレーニン段階と区別されるのか、また、各国資本主義の総和として世界資本主義があるのか、それとも各国資本主義を資本主義という世界体系の有機的部分とみるのか、この認識の交叉する点は、今日いっそう重要でございましょう。各国別にみるなら「帝国主義」という特徴づけは古色蒼然ですが、世界編成(世界体系)としてみるならどうか、という論点は、ネグリ「帝国」論の評価にもかかわって今日的なテーマかと存じます。
当時すでにアメリカ大企業が「多国籍」化しはじめていた現象(例:クライスラーによるシムカ買収にドゴールが激怒)、あるいはまたそれにも媒介されて国籍を離脱した遊休貨幣資本(ユーロ・ダラー)の投機運動の広がりなど、60年代を特徴付ける資本の国境を超える新動向をどれほど射程に入れていたか、疑問なしといたしません。総じて新左翼の「時代感覚」と「政治観念」と「理論」とは、最初からおそろしいまでの不整合・不統一で、門松説や吉本説の消化・未消化以前の問題と以後の問題とが激しく乱立していたと当時を振り返って感じます。ご指摘の「悲劇」のひとつの理由は、自らの政治観念を資本制の世界的展開に即して理論化しえなかった結果、主観化に滑り落ちていったことにあったのではあるまいかと。あらためて「理論」に少しくこだわってみたく思いはじめたところでございます。
※「独占資本」という用語法も実はわたしよくわかりません。巨大企業の間でも競争はあることを考えますと、「独占」より「寡占」のほうがよりよく事態を現わしているようにも思うのですけど。
いずれにせよ素人の思い付きばかりで発展性もなく、ご教示たまわれば嬉しく存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。m(__)m
↓訂正します 投稿者:老愚童 投稿日: 7月12日(土)01時27分22秒
訂正個所
>「翻って、逆に、『資本論』の登場人物たちの、貨幣を仲立ちとした商品の売買に連動して不断に転成する現前する貨幣の存立根拠を捉えきってないとすれば、・・」
→「翻って、逆に、商品の売買に連動して不断に転成し、現前する貨幣の存立根拠を捉えきってないとすれば、・・」
>「するような構造の。
二、弁証法的な論理的発生論(系統発生論と個体発生論が重ね合わされたような)」
→「一、存立構造論。 しかも循環運動するような構造の。
二、弁証法的な論理的発生論(系統発生論と個体発生論が重ね合わされたような)」
(無題) 投稿者:老愚童 投稿日: 7月12日(土)00時31分58秒
>「できると思います。」
とすれば、「価値形態論」とは、”現実社会において、単なる金属のかけらや紙のきれはしが、「貨幣」として「転成」し、「存立・現前」していることの説明である”、ということになりませんか?そのことをテツガクに媚びた言い方にかえると、”現実のモノ・貨幣というモノ(Ding)の背後に在るものについての思索であり叙述である”と。
であれば、「ブルジョア経済学によって試みられることさえなかった」その叙述をなんと呼べばよいのでしょう。Metaphysik?それとも Ontologie? でしょうか?
話しのながれとしてこのようになってしまいそうですが、どうでしょうか?
また、時々刻々と転成する「貨幣」の存立構造を立体的に捉えた、とするなら、「簡単な価値形態」・「拡大した価値形態」・「一般的価値形態」・(「貨幣形態」)の3(4)枚の理論的スナップ・ショットは、ハドロンの寿命より短命と思える「転成」の瞬間において、どのような理論的位置・位相を占めるものなのでしょうか?
翻って、逆に、『資本論』の登場人物たちの、貨幣を仲立ちとした商品の売買に連動して不断に転成する現前する貨幣の存立根拠を捉えきってないとすれば、それは、宙を漂う、マルクス創作の神話ではないのか、とも思えてしまいます。その場合、「形態論」は、「価値」が織り成すMytheを研究するMythologieということにでもなりはしないでしょうか?
>「いま暫定的に思い浮かぶ範囲で述べますと、マルクスのここでの方法論には、次のような諸要素が混在していると思います。
するような構造の。
二、弁証法的な論理的発生論(系統発生論と個体発生論が重ね合わされたような)
三、歴史的発生論(系統発生論に近い)
四、市場機構の生成・進化論(経済主体の欲望原理にもとづくシステム生成)
それで、非常に割り切って四の要素だけしてしまったのが山口重克氏だと言うことです。
で、そのような山口的な論理に整理してしまえば、生物学の方法(3か4あたりでしたか?)に該当すると言い切れてしまいます。」
とても興味深いお話です。
「一、存立構造論。 しかも循環運動・・」について
この線(循環運動)で行くと、マルクス「形態論」は不要、かと。諸商品から専制的に直接的交換可能性を賦与されたものが貨幣である、と言ってしまえば終わってしまいそうな・・「はじめに業(=貨幣・・老)ありき」・・。
「二、弁証法的な論理的発生論(系統発生論と個体発生論が重ね合わされたような)」について
「系統発生」はわかりやすいです。たとえば、人類史になぞらえて、数百万年前にアフリカのどこかにヒトの祖(簡単な価値形態)にあたるものが発現し、二,三百万年降って北京原人やネアンデルタール人(拡大された価値形態)が出現するも死に絶え、15万年前にミトコンドリア・イヴ(一般的価値形態)が誕生し、その子孫として現生人(貨幣)がある、と。ちょっとカリチュアライズし過ぎかな。
ところで、「系統発生」と「個体発生」を重ねる、というのはどういうことでしょうか?例えば、或る人の誕生という「個体発生」において、受精卵から誕生までの間に魚・両生・は虫類の「系統発生」の痕跡が発現する、というようなことなのでしょうか?
「三、歴史的発生論」について
この場合の「系統発生」は、時間が降るにつれ、根(過去)→幹→小枝→梢(現在)というように、樹形図がだんだん広がるようなものなのでしょうか?それとも逆さまで、梢(過去or簡単な価値形態)→小枝(拡大された価値形態)→幹(一般的価値形態)→根(現在or貨幣)、のようなものなのでしょうか?
「四、市場機構の生成・進化論(経済主体の欲望原理にもとづくシステム生成)」
ほんとうに残念なのですが、高望みさんおすすめ(と思われる)の『経済原論講義』(山口)は、当面、落ち着いて読めそうにありません。そこで、ここでの論点と関係する部分だけでもかいつまんでご教示願えませんか?
>「ここも、ワルラスの一般均衡論・・」
連立、多元方程式を駆使して、一般均衡の数理・解が導出されたとしても、<完全情報>あるいは市場情報の確実性の公準そのものが、現実の経済活動を精確に反映したものである保証はどこにあるのだ?、などと考えてみると底無し沼のスパイラルに入りそうです。この方面、鬼門として封じておきたいものです。
科学? 投稿者:老愚童 投稿日: 7月11日(金)23時46分10秒
>「・・頭から自然科学のみがWissenachaftのありうる方法論だというのでなければ、これらのどれかにあてはまるかどうかということは、かならずしも意味がないように思われます。」
すみません。この1文、ちょっとわかりにくいのですが。
自然科学のみがWissenschaftのありうる方法論であれば意味がある、ということなのでしょうか?
この点とりあえず保留のまま次のこと伺いたいのですが。
Wissenschaftのなかから、自然科学と社会科学とをとりだした場合、両者の科学性の共通点と相違点は、どのようなものになるのでしょうか?また、マルクス価値論の科学性(あればですが)は、それらとの関連で言えばどうなのか、そして何に根拠を置くものと考えればよいのでしょうか?あるいは、科学性を問うこと自体無意味なのでしょうか?
以上、当掲示板での最初の書きこみ時の問題意識との関係上、及びその後、宇野の本を拾い読みしてみると「科学」という文字がよく目につきますので。
>「この二分法は、あまりよくわかりません。自然科学でさえも、そんなに綺麗に分けられるものなのでしょうか? たとえば、コペルニクスの地動説やアインシュタインの相対性理論は、どちらに入るのでしょうか?」
不正確なままでの書きこみ、すみません。学のあり方と説明の仕方を自然科学と社会科学・人文科学との対比で考える手がかりにでもなれば、という思いでヴィットゲンシュタインをあげたわけですが、適切さを欠きました。
地動説ひとつとっても、自然科学的要素(観測⇔仮説)と人文科学的要素(ギリシア哲学)が合生して出てきてるようですからまさに、「そんなに綺麗に分けられるもの」ではないのでしょう。
物化 投稿者:老愚童 投稿日: 7月11日(金)23時34分59秒
>「馬渡尚憲『経済学史』(1997年)で、リカードのあとのマルサス、ベイリー、シーニア、セー、シスモンディの論争のあたりを読んでいたら、宇野弘蔵『経済原論』(1950-52年)・山口重克『経済原論講義』(1985年)の時代から、・・・」
その論争の経緯、ご両人は了解してなかったのでしょうか?
>「宇野の体系が「物化の体系」というのは、廣松渉あたりを投影した読み方ではないでしょうか。もし宇野が明白にそうなら、廣松があんなに不毛な反発をしないでもすんだものを、という気もします。
とはいえ、宇野や多くの宇野学派のばあい、あいまいさは否めません。明確に「物化の体系」であることを否定し・・・・・・1985年)でした。」
広松の考えも若干、背景にありますが、「物化の体系」という言葉は、哲学プロパーからの宇野理論の支持者と思われる清水正徳のものです(*1)。清水がこのような考えをもつにいたる原因の一半以上のものが、マルクスはもちろん(*2)、やはり宇野の言説にあるのではないでしょうか(*3)。
たとえば、「価値形態論」はあくまで「Form」に視座を置いての論理展開であるはずなのに、宇野は、「商品所有者」の「欲望」を理論の要に配置しているわけです。
特に、「拡大されたる価値形態」から「一般的価値形態」への「逆転」のところで、「直接的欲望から遠いものほどあらゆる商品所有者にとって、共通の等価物としてあらわれてくるものとして考えてよい」と、かなり恣意的と思える論理運びになっているのではないでしょうか?
「価値形態論」のところでは、「Form」に徹して形式論理学的につめて、「すべての商品所有者が同じ事をするのだから、どの商品も一般的等価物ではなく」というように、「一般的等価形態」の空虚さを示唆するまでにとどめ、リアルな「諸商品の共同事業」としての「一般的等価物」の析出・排除に関しては、マルクスのまま、すなわち「交換過程」の章で行ったほうが無理がないように思うのですが・・。
以上、私の一面的過ぎる理解でしょうか?また、半世紀も前の論戦の、矮小化され、縮小再生産されたはなし、のようですみません。
*1.『人間疎外論』
*2.『資本論』第1版・序文
*3.『経済学方法論』
↓ やっぱりポテトチップス 投稿者:高望み 投稿日: 7月11日(金)20時25分37秒
なんだか、どっちだったかな〜と訳わかんなくなってきて、「藤谷美和子 百円」で検索したら、やっぱり第一直感の「ポテトチップス」のほうが正解でした、悪しからず^^;
重大な誤り>>RE:釈然と・・ 投稿者:高望み 投稿日: 7月11日(金)15時57分06秒
「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません」
ポテトチップス→かっぱえびせん
これはその昔、マル戦派で鈴木鴻一郎・岩田弘の経済学に学んだ栗本慎一郎によるコピーだと伝説されていますね^^
アナリティカル・マルキシズムへの言及 投稿者:高望み 投稿日: 7月11日(金)15時52分01秒
拙著『段階論の研究』第二章(註7)、106〜107ページより。
あまり大した内容のことは言ってませんが。
>>こうした状況を反映して、欧米の親マルクス的潮流においても、「制度」をめぐって二つの立場が分岐しつつあるようである。第一は、ホジソン[1988]などのように方法論的個人主義を否定することに意義を見出すものであり、第二は、逆にジョン・ローマー[1994]、ヤン・エルスター[1989]などのように方法論的個人主義の説明力をマルクス学派にも導入しようとするものである。後者のサーベイとしては、松井暁[1995]pp45-75、高増明[1995]pp42-49、同[1997]pp48-52、等参照。松井によると、分析的マルクス主義の特徴として、対象領域においては、第一に搾取、階級、国家、史的唯物論(以上は日本のマルクス学派からみるときわめて教条主義的なものだが)、第二に社会主義体制論、第三に規範・倫理理論にあり、方法においては第一に論理実証主義、分析哲学、新古典派、社会的選択理論、ゲーム理論の積極的な採用、第二にヘーゲル的な弁証法や矛盾の概念の使用の忌避、第三に明示的で抽象的な数理モデルの多用、第四に方法論的個人主義の重視、研究スタイルにおける開放性、非イデオロギー性、が挙げられている。もともと、宇野理論の場合は対象領域は市場経済に狭く限定されてきた一方で、方法と研究スタイルにおいては、数理モデルの多用以外はすべて同様のことがすでに前提されていたし、分析哲学や近代経済学のツールの導入にも90年代に入ってからは拒絶的ではなくなってきているし、実証的研究の蓄積では遙かに豊富であるといえる。>>
>>TAMO2 さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月11日(金)15時45分48秒
『経済学I・II』についてはすでにご教示がありますね。臨夏さん、鄙親父さん、ありがとうございます。
僕も、東大宇野派の先生が総動員で書いているので、大学院の受験勉強にいいのかと思って、1986年の一年間はこの二冊と格闘していました。でも、たくさんの人が分担して書いているので、かならずしも全般的に上出来ではなかったようです。ところどころ佳い、という感じの教科書です。ただ、宇野派では唯一といってよい、網羅的でコンパクトな教科書なので、利用価値はあります。とくに、正統的なマルクス、レーニン学派から、宇野学派の原理論、段階論がどのように論争的に生成してきたかを、説明してくれている部分は貴重です。それも出来不出来はありますけど。
>>(2)-(3) やっぱり、労働価値説そのものの是非を追及する事は、トートロジーに嵌るので論証不能、ってことでよろしいでしょうか? 小生はそのように考えていますけど。
というか、置塩系統の数理モデルの議論では、前提からのトートロジーでしかない、ということだと思います。労働価値説そのものは、定性的に議論していけば誤りは明らかになると思います。そのうえで、それを数理モデル化したければする、というのが論理の筋道だと思います。
>>(4) 一杯書いてあって、どれがキーか分かりませんでした。もし、よろしければ、Cohen批判
をお願いします。(他の方へのレスを優先願います。)
既述の通り、この方面にあまり関心はないのです。むかし、コーエンというよりアナリティカル全般だと思いますが、それについて、ほんのちょこっと言及した数行がありますので、あとでそれをアップしてみたいと思います。
横レスですが・・・ 投稿者:鄙親父。 投稿日: 7月10日(木)16時40分38秒
下記サイトから、「桜井毅」で検索すると、どうやらそれらしい本(1980年 有斐閣)がヒットしますよ。「詳細表示」というところをクリックしてみると2巻本ということで、どうも「経済学1・2」みたいです。
http://www.kosho.or.jp/index.html
『経済学1』有斐閣は、 投稿者:臨夏 投稿日: 7月 9日(水)23時29分38秒
学生のころ、主義者の友人に「読め」と言われて買うた(しかも通読した(笑))
本なのですが、手に入りにくそうですねえ。
因みに、『経済学2』という、それの続刊もあります。
1は理論編で、2はそれの現実適用編=経済学史なんですが、
歴史から入ったら理解しやすいやろう思て探したんですが、なかなか手に入らないです。
たしか、京大の経済学部図書館にすらなかったような気が。
荒本?でしたか、大阪中央に行ってさがそうかな。
RE:釈然と・・>>老愚童さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月 9日(水)22時10分47秒
>>「貨幣形態の発生史(論)[Genesis]」という場合のGenesisとは、歴史的な順序や発展段階を意味するのではなく、時々刻々と生成される現実社会の貨幣の転成と存在構造を立体的に捉えたもの、と考えることはできないでしょうか?
できると思います。
>>であれば価値形態論は、字義どおりの「生成の論理」というより「構造の論理」に近いのではないでしょうか?
ここの問題意識はよくわかります。マルクスのここでの方法論は、発生論か構造論かという二分法ではとらえられないところがあるからです。そして、マルクス自身がうまく弁別しきれなくて、さまざまな要素を混在させているのでは、というふうに私も考えています。ただ、そのような混乱をもって、老愚童さんのように、そもそもマルクスの方法論そのものが間近っているのではないか、というように考えるのではない、という違いかと思われます。
いま暫定的に思い浮かぶ範囲で述べますと、マルクスのここでの方法論には、次のような諸要素が混在していると思います。
一、存立構造論。 しかも循環運動するような構造の。
二、弁証法的な論理的発生論(系統発生論と個体発生論が重ね合わされたような)
三、歴史的発生論(系統発生論に近い)
四、市場機構の生成・進化論(経済主体の欲望原理にもとづくシステム生成)
それで、非常に割り切って四の要素だけしてしまったのが山口重克氏だと言うことです。
で、そのような山口的な論理に整理してしまえば、生物学の方法(3か4あたりでしたか?)に該当すると言い切れてしまいます。
>>貨幣と商品世界の、1:(n-1)の均衡と対立をはらんだ緊張関係を説明するのには、晦渋で冗長な空論になっているのではないのか?とも思えてくるのです。
ここも、ワルラスの一般均衡論を連想しておられるのかどうかわかりませんが、有名な、「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません」という命題を説明しようとするものとしての価値形態論の問題意識と、すこし違う話のように思うのですが。
RE:年とると朝が・・>>老愚童さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月 9日(水)22時09分08秒
>>現実の貨幣と価値形態論の叙述・内容との関係は、次にあげる例のうち、どれに一番近いのでしょう?そもそも問題構制(プロブレマティーク)自体が誤っているのでしょうか?
挙げられている1〜5の例は、いずれも数学、自然科学および疑似自然科学としての需給法則論ついてのものですね。頭から自然科学のみがWissenachaftのありうる方法論だというのでなければ、これらのどれかにあてはまるかどうかということは、かならずしも意味がないように思われます。
たとえば、人間はなにゆえに「神」を崇めてきたのか、なにゆえに「天皇」を「神」の如く崇める政治制度が存在してきたのか、「貨幣」が「現世の神」の如くに機能するのはどのようにしてか、等々という社会科学的な問いかけにとっては、すっきりと1〜5にあてはまらないからといって、だからどうしたの?ということにしかならないのではないでしょうか。
>> a.真理を隠蔽しているおおいをはがすことによって人々に説明する方法。いわゆる発見(discovering)にあたるもの、だったかな。
b.既知のものを整序・再構成して概念的に把握することによって了解を得る方法。
あえて言えば、「貨幣の謎」を解明したとされる、価値形態論はどちらなんでしょう?まったくどちらでもないのでしょうか?
この二分法は、あまりよくわかりません。自然科学でさえも、そんなに綺麗に分けられるものなのでしょうか? たとえば、コペルニクスの地動説やアインシュタインの相対性理論は、どちらに入るのでしょうか?
ありがとうございます 投稿者:TAMO2 投稿日: 7月 9日(水)21時58分23秒
(1) ありがとうございます。「転形問題」で検索すれば、一杯ヒットしました。ゴチャゴチャ
した説明が多いですね。で、『経済学1』(有斐閣大学双書)がよろしいですね。でも、地方
(愛媛県)で入手できるかどうかが問題となります。
(2)-(3) やっぱり、労働価値説そのものの是非を追及する事は、トートロジーに嵌るので論証不能、
ってことでよろしいでしょうか? 小生はそのように考えていますけど。
(4) 一杯書いてあって、どれがキーか分かりませんでした。もし、よろしければ、Cohen批判
をお願いします。(他の方へのレスを優先願います。)
では、今後とも宜しくお願いいたします。
RE:もう朝か・・>>老愚童さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月 9日(水)21時34分37秒
>>「1.」について
「商品所有者」を前提し、その「欲望」を媒介にしての論理展開、昔日読んだとき違和感を持ちました。というのは、宇野・原理論の「純粋資本主義」が「物化の体系」として考えられているのに、人間の「欲望」という生の意識が論理展開の舞台回しになっているからです。この点、理論的一貫性を保ち得ているのだろうか、と。またその場合、「市民社会」を「欲望の体系」と捉えたへーゲル哲学との関連や如何に、と。
宇野の体系が「物化の体系」というのは、廣松渉あたりを投影した読み方ではないでしょうか。もし宇野が明白にそうなら、廣松があんなに不毛な反発をしないでもすんだものを、という気もします。
とはいえ、宇野や多くの宇野学派のばあい、あいまいさは否めません。明確に「物化の体系」であることを否定し、経済主体の欲望だけで原理論を再構成したのが、山口重克『経済原論講義』(東京大学出版会、1985年)でした。
ヘーゲルの「市民社会・欲望の体系」の解剖学としての経済学批判、という視点は、宇野派においては、残念ながら原理論的な民族浄化の犠牲となってしまった観がありますね。その意味では、論理的に首尾一貫はしているのですが、問題なしとはしません。
>>「2.」について
マルクスがしているような形式的「逆転」は確かに免れているとしても、なにか取りあえずの便法のような感じを受けました。「こういう説明の仕方もあるかな」というような。
これも、山口『原論』あたりになると、非常にすっきりと、経済主体の欲望にもとづく行動から貨幣の生成が説かれるようになっています。それは、事実上、近代経済学のメンガーなどの説明の仕方と同じところに行ってしまったようです。宇野のばあいは、まだそこまですっきりとはしていなかったかもしれません。
RE:はじめまして>>鬼薔薇 さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月 9日(水)21時03分47秒
いらっしゃいませ。
第二インター期マルクス主義派や、宇野学派の「金融資本−帝国主義論」については、拙著『段階論の研究』でいささか詳しく行ったことがあります。
個別レーニンの『帝国主義論』が、経済学的にみていかにいい加減かについては、アソシエ21の講座でやったことがあります。
ポスト冷戦期の「帝国主義」的政治現象をどうみるか、というのは、そもそもそれを「帝国主義」的と名づけるボキャ貧さにゲンナリするところがあります。
もっとも、第二次大戦後のポスト「植民地帝国主義」期の、過渡的な世界において、残像としての帝国主義が問題とされてしまったこと、左翼の言説がそうしたものに呪縛されていたことは、慣性の法則として理解はできます。さらにその延長にポスト・コロニアリズムの問題があることも同様です。
とはいえ、私は、1965年当時において、門松暁鐘が提起した「帝国主義段階ではなく国独資段階」という見解、それと相携えて提起された吉本隆明の「(核兵器の登場による)戦争と革命の不可能性の時代」という時代認識が、翌年の第二次ブント再建に活かされなかったことが、69年以降の戦後左翼の思想的、社会的な雲散霧消という悲劇を生む大きな要素であったのではないかと、ずっと思い続けています。
RE:はじめまして>>TAMO2さん 投稿者:高望み 投稿日: 7月 9日(水)20時45分50秒
TAMO2さん、いらっしゃいませ。
(1) 「価値転形」問題ってのはそもそも何でしょうか? ネットで調べても分かりませんでした。
「価値から生産価格への転形問題」のことですか? 「転形問題」で検索したらたくさんヒットしましたが、ふつうのマル経の教科書でも、何らかの説明はあるはずですね。
臨夏さんの言及していた『経済学1』(有斐閣大学双書)では、伊藤誠氏が論争の流れを概括的に解説してます。伊藤氏の解法自体は?が残りますが、流れの説明としてはわかりやすかったと思います。
(2) 搾取の問題について Bowles & Gintisの「一般化された商品搾取定理」ってのはどうも外せないようですが、ものの本(「アナリティカル・マルキシズム」)ってのによると、「労働だけでなくどんな商品でも搾取は成り立ち得る」(p16)とあります。これは、流通過程では剰余価値が発生しないことを証明した資本論の記述(第1巻第4章第2節他)と矛盾すると思うのですが、学術的にはどのように考えられているのでしょうか。あるいは、小生の誤解でしょうか。
(3) 置塩先生の「マルクスの定理」を説明した本もしくは原本を入手したく思うのですが、門外漢には不可能でしょうか。
2、3は関連してますね。
置塩信雄の本はネット検索でも、いくらでも手にはいるのではないですか。
また、「マルクスの基本定理」なる笑止な理論については、岩波の『経済学辞典』にも項目として掲載されているようです。
ネットで検索したら、次のような適切な文言もヒットしました。このサイトは、いまはじめて遭遇しましたが、TAMO2
さんは御存知ではなかったですか。
http://www.thought.ne.jp/html/text/socio/05eg3.html
「でも、確か「利潤率がプラスであるならば、搾取率はプラスである。その逆も成り立つ」というマルクスの基本定理は、労働搾取の存在と任意の商品の搾取の存在の同値性を示した「一般化された商品搾取定理」によって、利潤の唯一の源泉としての労働搾取という含意を完全に喪失してしまったのではなかったですか?」
で、これについて、
>>「労働だけでなくどんな商品でも搾取は成り立ち得る」(p16)とあります。これは、流通過程では剰余価値が発生しないことを証明した資本論の記述(第1巻第4章第2節他)と矛盾する>>
のではないかというのが、TAMO2 さんの御質問ですが、たしかに、「労働だけでなくどんな商品でも搾取は成り立ち得る」ということを「論証」すると置塩の僭称マルクスの基本定理にたいする批判になる、というのは、論理の手順がおかしいですね。
そもそも、マルクスが、剰余価値の源泉は剰余労働にしかないとしたことが正しいかどうかという定性的な問題なのですから、そこをネグって、勝手にモデルを弄んで、商品の搾取もありうることが「証明」されたといってもトンチンカンだと思います。
それで、置塩の僭称マルクスの基本定理なるものは、やはり同じように、労働だけが価値を形成するという前提をおいてモデルをつくって、その内部で利潤が存在すれば剰余労働の搾取が存在している、という自明のことを「証明」してみせるだけのことです。
それに対して、労働いがいのものも価値を形成するという前提でモデルをつくれば、「一般化された商品搾取定理」が「証明」されるというわけです。
問題は、労働だけが価値を形成するのか、剰余労働だけが利潤の源泉となるのか、ということですが、古典派・マルクスの投下労働価値説は、まったく成り立たない考え方だということは、いまではもはや論争問題とはなっていません。
生産資本や余分の土地が存在しない状態で、素手の労働だけで生産できる量と、生産資本や余分の土地が利用可能な状態でおこなわれる労働によって生産できる量とが異なるばあい、後者の利用によって増加した剰余生産物は、利潤や地代の源泉となりうるわけです。その場合、労働時間は一定のままでも利潤や地代が発生しているわけです。
(4) 「唯物史観」の現段階を論じるのに、Cohenという人は欠かせないようですが、よい書物をご存じないでしょうか。
わたしは、あんまり欠かせない人だとは思っておりませんが、「アナリティカル・マルキシズム」という本で参考文献として何か紹介されていたのではないでしょうか。
たくさんの 投稿者:高望み 投稿日: 7月 8日(火)22時25分00秒
方々の書き込み、痛み入ります。
明日から一両日ぐらいかけて、少しずつレスを付けさせて頂きたいと思います。
土曜は新宿某所にて柄谷行人・古井由吉の朗読会というのをちょっと聴いてきました。まあ、催し物としてこういうのもあるのか、となかなか面白かったです。日曜は、せっかく上京したついでと、味岡さんに会ってもらっていろいろ話しをききました。すこし研究会でもやろうかという話しもしました。
それでは、終バスにむけて走ります。
鬼薔薇さん> 投稿者:臨夏 投稿日: 7月 6日(日)11時18分05秒
どうも、勝手な紹介重ね重ねすみませんでした。
本来、わたしがこっちでするべきことでしたね、申し訳ありませんです。
*新田さん、皆さん全員をお相手するのは大変でしょうか(^^
わたしが口出しするのはおかしいと思いますが、お仕事にさしつかえのないところでお願いいたします。
TAMO2さん> 投稿者:臨夏 投稿日: 7月 6日(日)11時15分33秒
おはようございます、
人がいっきに増えましたね!
ここのアドレスは紹介してないのに、みんな知ってはったんですねえ〜。
「転形問題」ですが、これは有名な問題ですね。
門外漢のわたしですが、大学の、経済原論みたいな教科書には載ってるのではないでしょうか?
いま、わたしの使てる、『経済学1』有斐閣大学叢書/宇野派の、p306、p311にもありました。
それにしてもTAMO2さん、お勉強進んではりますね!
わたしもがんばらんとなあ、と脅威を感じました(笑
はじめまして 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 7月 6日(日)08時40分09秒
こちらお初の鬼薔薇と申します。
臨夏さんの板にときどき寄らせていただいております、しがないネット無宿でございます。
このたびこちらにご紹介いただいた由、まことにお恥かしいかぎりなのですが、それにしても臨夏さんの紹介文は不正確このうえもないこと、本人より訂正させていただきたくまかり越しました。
わたし、「趣味者界」なるものに身を置いたことございません。
また、生来「暴れん坊」などと無縁の、至って大人しい生き物でございます。
そのところ誤解なきよう、どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m
釈然と・・ 投稿者:老愚童 投稿日: 7月 6日(日)06時34分47秒
マルクス貨幣論に釈然としないわけをまた少し違う角度から話します。
平田清明や望月清司の考え方に依拠すると(誤読の可能性ありますが)、
今生きている現実の社会は、「(近代)市民社会die (modern) burgerliche
Gesellschaft」が「資本家的生産様式」に支配されることによって不断に生成・転成されている、と。
そうしますと、「貨幣形態の発生史(論)[Genesis]」という場合のGenesisとは、歴史的な順序や発展段階を意味するのではなく、時々刻々と生成される現実社会の貨幣の転成と存在構造を立体的に捉えたもの、と考えることはできないでしょうか?、
であれば価値形態論は、字義どおりの「生成の論理」というより「構造の論理」に近いのではないでしょうか?その場合、第一から第四の形態変化をあげて説明することが果たして妥当なのかどうか(宇野学派も同断)。貨幣と商品世界の、1:(n-1)の均衡と対立をはらんだ緊張関係を説明するのには、晦渋で冗長な空論になっているのではないのか?とも思えてくるのです。
年とると朝が・・ 投稿者:老愚童 投稿日: 7月 6日(日)05時35分15秒
>「貨幣の謎・生成」を説明することに仮にマルクス貨幣論が成功しているとして、では、他の諸科学(Wissenschaftくらいの意味で)の問題解明の手法と比較してみると、例えとしてどんなものがあげられるでしょうか?
すみません、この部分、落丁があるようです、ご趣旨が読みとれません。
そのように言われても仕方のない一文ですね。そこで、次のような問い方にしてみますがわかっていただけるでしょうか?
人に何事かを説明しようとするとき、説明される事象・ことがらと説明の仕方・叙述とのあいだにいくつかのパターンがあると思います。そこで、現実の貨幣と価値形態論の叙述・内容との関係は、次にあげる例のうち、どれに一番近いのでしょう?そもそも問題構制(プロブレマティーク)自体が誤っているのでしょうか?
1. 化学・物理学的自然現象と気体反応の法則・万有引力の法則・光の性質の説明などとの関 係。これはおそらく、観察・観測ー仮説ー実験・検証ー定式化、という流れのなかに位置付けら れるのかな。
2. ユークリッド幾何学でなされるような、問題と公理体系に基づいた証明の関係。
3. 蝶の誕生について、卵ー幼虫ー蛹ー成虫、というメタモルフォーゼを時系列的に説明するや り方。
4. 動物の生命活動が恒常的に維持されていることを諸器官・諸神経の調和と緊張関係で説明 するやり方。
5. 経済的事象と経済学的法則ーーたとえば、物価動向を需給法則から説明すること。
* 手元に資料がないので確認できませんが、ヴィットゲンシュタインが「説明」ということに関してこ んな風に書き残していたような・・。
a.真理を隠蔽しているおおいをはがすことによって人々に説明する方法。いわゆる発見 (discovering)にあたるもの、だったかな。
b.既知のものを整序・再構成して概念的に把握することによって了解を得る方法。
あえて言えば、「貨幣の謎」を解明したとされる、価値形態論はどちらなんでしょう?まったくどちらでもないのでしょうか?
もう朝か・・ 投稿者:老愚童 投稿日: 7月 6日(日)04時02分28秒
> 「あたかも空気をその元素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続させるのを妨げないのと同じように……」(第一章第四節)
商品の物神性批判の比喩としてはわかりやすいと思います。マルクスによって、あるいは学知的見地(fur
uns)において物神性の秘密が暴露され、神秘性が剥ぎ取られても、商品世界の住人にとっては(fur es)相変わらず物神性に呪縛されたままである、と。
これは確かに形而上学の解体作業のひとつ、とも言えると思います。この辺り首肯の範囲です。問題はそれ以前の部分。価値形態論と実体論のところかな、と。
>「1.宇野は価値形態論に商品占有者を登場させて、形式の論理ではなく、経済行動の論理に組み換えた。
2.「拡大されたる価値形態」と「一般的価値形態」を『資本論』第二版のように、一対多から多対一に図式的に転倒させるという論法は否定し、商品占有者の欲望からしだいに交換可能性の高い商品に一般的等価物が特定されてゆくという論理にした。」
「1.」について
「商品所有者」を前提し、その「欲望」を媒介にしての論理展開、昔日読んだとき違和感を持ちました。というのは、宇野・原理論の「純粋資本主義」が「物化の体系」として考えられているのに、人間の「欲望」という生の意識が論理展開の舞台回しになっているからです。この点、理論的一貫性を保ち得ているのだろうか、と。またその場合、「市民社会」を「欲望の体系」と捉えたへーゲル哲学との関連や如何に、と。
「2.」について
マルクスがしているような形式的「逆転」は確かに免れているとしても、なにか取りあえずの便法のような感じを受けました。「こういう説明の仕方もあるかな」というような。
* 宇野・経済原論を読んだのは、助詞「〜に」「〜を」の使い分けすら気に留めることもなく、また、「=(等号)」を単なる数学的同量比較の記号としてのみ了解していた頃ですので、私自身、きちんと理解してなかった、と思います。
したがって、本来であれば価値論・原理論を再読、読みこなした上で返事差し上げるべきかと思いますが、身辺事情許さず、不分明な応答、御寛恕のほどよろしくお願いします。誤りがあればその都度ご指摘ください。
はじめまして 投稿者:TAMO2 投稿日: 7月 6日(日)01時40分03秒
臨夏板からやってまいりました。共産趣味者のTAMO2と申します。本職はエンジニアゆえ、なかなか
「原典」ってものに出会えず、いくつかのマルクス(にまつわる)理論的疑問を抱えております。
この板の方なら、それらの疑問に答えられるであろう情報や学識をお持ちと思いますので、いきなり
失礼かとは存じますが、ヒントなど頂ければ幸いです。
(1) 「価値転形」問題ってのはそもそも何でしょうか? ネットで調べても分かりませんでした。
(2) 搾取の問題について Bowles & Gintisの「一般化された商品搾取定理」ってのはどうも外せ
ないようですが、ものの本(「アナリティカル・マルキシズム」)ってのによると、「労働だけで
なくどんな商品でも搾取は成り立ち得る」(p16)とあります。これは、流通過程では剰余価値が発生しないこと
を証明した資本論の記述(第1巻第4章第2節他)と矛盾すると思うのですが、学術的にはどの
ように考えられているのでしょうか。あるいは、小生の誤解でしょうか。
(3) 置塩先生の「マルクスの定理」を説明した本もしくは原本を入手したく思うのですが、門外
漢には不可能でしょうか。
(4) 「唯物史観」の現段階を論じるのに、Cohenという人は欠かせないようですが、よい書物を
ご存じないでしょうか。
未だ「正義論」(ロールズ)をゲットしていないヘタレですが、一つでもお返事いただけたら嬉しく
思います。今後とも宜しくお願いいたします。
おこんばんは〜! 投稿者:臨夏 投稿日: 7月 5日(土)21時42分55秒
御機嫌いかがですか(^^
臨夏板で、趣味者界の暴れん坊、鬼薔薇さんが、
「帝国主義勉強会」を提案されています。
わたしも、賛同しておきましたので、
是非ごらんください。
高望みさんにも、なんらかの形で、御アドバイスなり、参与なりしていただければ、
幸甚、これに過ぎたるはないのですが(^^
それと、大字報板で、ここのアドレス公開してよろしいでしょうか?
↓
http://6518.teacup.com/rinka/bbs
RE:また大字報板で、 投稿者:高望み 投稿日: 7月 2日(水)15時15分59秒
大むかし、池袋駅で小一時間、統一教会の勧誘のひとと立ち話して、まったく話しが通じませんでした。ほかにもそういう経験はありますが、どう対応してよいのか困ってしまいます。
また大字報板で、 投稿者:臨夏 投稿日: 7月 1日(火)23時09分40秒
津田氏が新田さんへの、「批判」を展開していますよ。
一応、ご報告まで。
↓
http://6518.teacup.com/rinka/bbs
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